野口哲哉

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Tetsuya Noguchi

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昨今、野口同様甲冑や侍をモチーフにした創作媒体は非常に多く、アートの世界は勿論、TVや映画、果てはゲームやコミックに至るまで枚挙に暇がない。

庶民の願望を仮託した英雄的キャラクター像の創作は論外として、侍とアートの融合を試みる場合の多くが「現代人とサムライの共通項」というアプローチに集約される。

いわく「サムライを通して人間の普遍性を表現する」あるいは「社会生活の中でのサムライの苦悩」等である。

確かに、野口の作る侍の滑稽な様を現代人の悲哀と重複することは容易である。

しかし、時に宙を舞い、時に猫の散歩をする気ままな侍たちから感じられるシニカルなニュアンスは、ありふれた「現代人とサムライの共通項」という見地を飛び越え、むしろ

それら情感的な解釈を俯瞰するかのような冷ややかな視点が感じられる。

その視点は言うまでもなく野口の価値観そのものであり、背景にはサブカルチャーと古美術、そしてファイン・アートを並列な物として捉える事の出来る特殊な世代的事情を見出す事が出来る。アートの大衆化とサブカルチャーの市民権獲得という文化の転換期に育った野口達の世代は、その思想において芸術に対する無条件の信仰や、サブカルチャーや古物に対する一方的な偏見を持っていない。

自身が良いと感じる物に対してはジャンルの枠を超えて極めてフランクに接し、朽ちた骨董品もSFのメカニックも、そして現代絵画も、個人の設けたルールの枠の中で共存させることが出来る。野口の作品がアートとして評価されながらも、フィギュアや古美術のエッセンスを含む事と、彼がプラモデルや歴史シュミュレーションゲームに慣れ親しんだ世代である事とは決して無関係では無い。


さて、野口の作品の背景に世代特有の価値観を見出せる事について、更に具体的に踏み込んで言及してゆくならば、重要な部分は侍や甲冑というモチーフの成り立ちに「普遍性」や「現代性」といった不確定な芸術的要素を求めたのではなく、表層から読み取れる物理的な事象の中に意味を見出した─ つまり、傷やシミ、剥落、伝来や展示方法といった、本来の造形の成り立ちとは無関係な部分に注目し、それら「付加価値」を重要なファクターとして捉えた事にあるといえる。

例えば、ある角度から見ると甲冑を扱う古美術の世界とは即ち付加価値の世界であり、造形や制作者の意図とは無関係なところで発生した古色や伝来に重要な意味を見出す分野である。 構造的には寸分たがわぬ物であっても、例えば仏像も、寺社仏閣も、甲冑も古色と伝来を伴ってこその存在であり、復元されてノイズを排した極彩色でフラットな姿は古美術としての商品価値を有さない。

商品価値は往々にして大衆の支持の高さを反映しており、多くの人が付加価値に高額な価値を支払う事はその好例であるし、贋作に見る「付加価値の捏造」によってのトラブルが絶えない事もまた、その重要性を皮肉な角度から証明する事と言える。

贋作行為を引き合いに出すまでもなく、一般に付加価値は経年と共に造形に付着するものであり、人為的に創作する物では無いという認識が浸透している。だが意地の悪い見方をするならば、贋作と知らず大きな感動を得る人は紛れもなく存在し、そこに、創作された付加価値が人に感動を及ぼす興味深い事実を読み取る事が出来る。


人の感動を呼び起こす付加価値は創作可能である─。

この一見斬新に見える理論は、実は野口によると幼い頃より慣れ親しんだサブカルチャーの中で以前から繰り返し実践されてきた物だという。

模型製作の世界では、キズや汚れの表現はウェザリングと呼ばれ、ごく当たり前に塗装作業の中に組み込まれてきた。模型の中では固有色と汚れの表現は同義であり、使用状況や

構成素材、設定資料といった具体的な情報が作業に必然性を与え、全てが連動しながら実感のある戦車やロボットを演出する。さらにはコミックやアニメーションがモデルの世界観を増幅させ、見る者のイメージを補完してゆく。この事は先述した付加価値の創作と基本的な部分で意味を同じくする。

古美術とプラモデルの比較は突飛に聞こえても、両者の共演によって浮かびあがってくるものは付加価値が造形の意味合いを強化してゆく不思議な共通点である。


野口はサブカルチャーと古美術を嗜好する中で、極めて自然にこの理論に辿り着いたという。古美術に見る感動の一端は付加価値が引き起こすものであり、付加価値は実証的な工作技術で再現可能である。 実証的な作業が感動を生み出すとするならば、その工程そのものをコンテンポラリーとして、現代美術への逆輸入を試みる。

これまで我々が「歴史のロマン」以上の解釈をしてこなかった付加価値を解体し、その構造の解析行為をそのまま作品に転化した彼の作品は、我々が深遠な意味を見出したがる感動の構造が実はプロセスによって合成された物かも知れないという事をシニカルに警鐘しているのである。

ある者は付加価値を本質とは無関係な物と断じ、キャプションや伝来に頼る鑑賞姿勢を厳しく批判し、またある者は付加価値に盲目的な信用を置き、自身のイメージで付加価値を膨張させた結果、物の造形を見る事を放棄してしまった。

野口の作る、虚構と現実の狭間に見え隠れする不可思議な世界観の侍達は、両者に対し付加価値の持つ怪しい魅力の再認識を迫るのである。


野口は言う。「少年時代、幼いころから好物だったカニ蒲鉾の中に、実はカニがひとカケラも入っていない事を知り愕然とした事がある。だが、それまでカニカマを食べる度に夢想していた深海を行くカニへの慕情は偽りないリアルな物であった。」

野口はカニカマによって合成された感情の発見に、怒る事も呆れる事もなく、むしろ驚きと感動をもってこれを歓迎した。以後20年、紆余曲折を経て彼のスタンスは原点に回帰し、カニカマを作品に変えて当時の感動の再現を試みたのである。

極限の精度を持って料理されたカニカマは、果たして実体としての一杯のカニに匹敵し得るのか─。

既に飽和状態を迎えつつある現代アートの世界にあって、サブカルと古美術の混血児である野口は日常の実感をユニークな形態で問いかけている。

確かにそのユニークな形態は、既存の芸術的なポーズをとらぬ故に、フィギュアのようでも、古美術のようでもある。

だが、既存の価値観に対して、新しい可能性を提示して見せる事がコンテンポラリー(当世風)美術であるとするならば、

野口の作品はその一点においてのみは、紛れもなくコンテンポラルであると断言する事が出来るのである。

ARTIST  Statement

■ コウガクサムライ 2011芝浦工大メインビジュアルartist_noguchi_kougaku.htmlartist_noguchi_kougaku.htmlshapeimage_2_link_0