渡部満

ルソーやデルヴォーといった、画家の固有名詞のもとに囲われてしまった広大なイメージの風景を、半リアルな共有地とみなしてみる。その共有地に僕の娘達はでかけ、花を手折り、うたた寝をして戯れている。

イメージの世界ではすべてにアクセス可能だし、禁じられるものはなにもない。

僕は、他の画家のイメージを風景画家のように眺め、そのイメージと戯れる。

自己とは、名前に囲われた閉じたシステムではない。

多種多様な情報が流れ混在し、変容する特異な場所だ。


作品もまた同じだろう。

ラファエロと言う名で囲まれた作品にはダ・ヴィンチとミケランジェロが混在し、変容している。


画家の名から解き放たれ、ニンフのいなくなったボッティチェリの静かな『春」の森の風景。時が過ぎて、たそがれ、変容して行くルソーの森。


最近はそんな風景を夢想しながら制作の日々を送っている。


アートフェア東京2007によせて

2007年 渡部満



夢想する自由を、 何人たりとも奪うことはできない。脳内におこる自由活動は、いかなる社会生活とも、あるいは社会的制約とも無縁の、他者への影響や相互関係から完全に切り離された、言わばこの世に存在しない虚空の物語である。

ただし、この脳内活動がいったんキャンバスの上なり粘土や木材の中なりにアウトプットされたならば、必ずしも社会的制約からフリーではいられない。侵犯を甘んじて受けなければならないのは、アウトプットとしての作品が他者へ与える影響についてだけでなく、作品が他者から受ける侵犯のことでもある。著作権として保護されるような、絵画や音楽などの表現手法を使った作品は、概ね作者の夢想の具現化物と言って差し支えないだろう。夢想という閉じられた世界が、ひとたび作品として具現化されたならば、それは作者以外の人々にとっても進入可能な共通広場となる。共通広場に足を踏み入れ、そこでまた夢想という自由行動をとることは当然禁止されるものではないし、禁止することは不可能である。

渡部の作品の多くは、その構図の中に明らかにそれとわかる歴代の名作が取り込まれている。ボッティチェリ然り、御舟然りである。それを侵犯と言うならば、渡部の油による技術の確かさがひとつの理由になっていよう。それら名作とは画材が異なるにもかかわらず、別のひとつの完成形を提示してしまっている。ボッティチェリにしてみれば、妖精達の忙しい森の中に東洋のかわいらしい少女が突然入り込んできて、さぞ困惑させられているだろう。しかし、作品がアウトプットされた結果としての共通広場である以上、そのくらいの侵犯は甘んじて受けなければならない。

ただし、アートビジネスという社会関係における事情が絡んでくると、どうも自由とばかりは言えないこともあるのかもしれない。借景ならば、賃借料を払うべし、と言ったところか。渡部の作品において、ボッティチェリの名画が掛かった壁の前で、眼力をたたえる由希子嬢の姿が描かれていたのなら、それは何やら、借景とでも言えるだろうか。しかし、由希子嬢は名画の中に入ってしまっている。文字通り、ぴょんと、あっち側へ。なんなら主役であるはずのヴィーナスを押しのけて、大きな貝殻の上に乗ってみたりもする。もはやヴィーナスはそこにはいない。ニンフの騒がしい森は、もはや共通広場として開かれた空間なのである。由希子嬢はニンフと会話することもできるだろうし、握手することだってできる。もっとも、由希子嬢は古くさい衣装をまとったニンフになどに興味が無いかも知れないが。プリマヴェーラとフローラが、春の訪れる森の中で何をささやき合っているのか、由希子嬢に聞いてみたい気もするが、せっかくまどろんでいるところを悪いような気もする。あちら側へぴょんと入ってみたら、ささやく声が聞こえてくるだろうか。

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Mitsuru Watanabe

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